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【インタビュー】「炭屋旅館」堀部寛子氏に聞く、お茶の宿として京都で愛され続ける老舗旅館の女将業とは
インタビュー

【インタビュー】「炭屋旅館」堀部寛子氏に聞く、お茶の宿として京都で愛され続ける老舗旅館の女将業とは 炭屋旅館(京都府/京都・中京区)

大正初期創業という京都屈指の老舗旅館であり、京都3大旅館の1つである「炭屋旅館」。今回は、そんな歴史と伝統のある旅館の女将・堀部寛子氏に、旅館創業の経緯から女将業の裏側など多岐に渡って伺いました。

お茶の宿として100年以上続く「炭屋旅館」誕生の経緯

-「炭屋旅館」の開業の経緯を教えてください。

元々は鍛冶屋だったと聞いています。先々代の鍈之輔(えいのすけ)が、奉公していた先で番頭さんの様なことをしていたそうですけれど。人と集まることが好きで、お茶に謡曲にとあちらこちらでお稽古をしていました。それほど優雅な時代だったのでしょう。京都には裏千家、表千家とお家元がいらっしゃいますし、謡曲は金剛流も観世流と色々あります。そんなところにお稽古へ行った帰りは、ここは京都の中心ですし「ちょっと美味しいものでも食べて、お稽古のおさらいしましょう」となって、家に人を招いてはまたお稽古をして、ちょっと美味しいものを食べてという感じだったようです。当時は今の様に遅くなると電車もないですし、「泊まっておいきやす」という事で人を泊める事が長いこと続いて、それがゆくゆくは旅館になったそうです。泊めてもらった方はご厚意に甘えてお泊りさせて頂いたわけですが、それも度重なるときずつないという事でお礼の印になにがしかおいて行かれたようです。でも政府登録になったのは昭和に入ってからの様ですので、そこまで歴史は長くはないです。

お茶の宿として「炭屋旅館」を全国に広めた先代公允

その後、娘だった母の恵美子が女将業を継ぎ、婿に公允(こういん)を迎えました。まだ大きな車が希少だった頃ですね。先々代の鍈之輔がお茶会に行く時、公允は運転手として色々なところに出入りさせてもらいました。そんな中、外で待つ父を見て、亭主の方が運転手役の公允も「どうぞ」と中に招きいれるようになりました。茶席で同席させて頂く事が重なって、公允もお茶に興味を持つようになったとか。そのうち先々代の鍈之輔の具合の悪い時は、公允が代わりにお茶会に顔を出すようになり。お茶の世界では、男性が正客(しょうきゃく)になることも多く、亭主と話もしないといけないですし、色々勉強を重ねるうちにお茶の世界にどんどんのめり込んでいきました。

お茶が好きになるとあちこちにお献茶に行くようになって、全国の神社などをお家元とご一緒に回ってお献茶巡りをするようになりました。15代家元の鵬雲斎(ほううんさい)様には随分可愛がっていただいた様で、その後老分(ろうぶん)という大役をいただいきました。そして全国でお献茶巡りをしていると色々な方に出会いますと「お茶をするなら京都へ。それなら『炭屋旅館』に泊まりましょう」ってなって、色々な人に来ていただくようになりました。それからだんだんと「『炭屋旅館』なら老分さんの足元でお茶ができる」と全国からお客さんが来てくださるようにまでなりました。父の公允はいつも夜になると「お茶の用事」と言って、旅館が忙しい時間に出ていくので私はあまり良い思いをしていませんでした。でも父が亡くなってからも、本当に色々な方が父を、そして「炭屋旅館」を慕ってお茶と言って申し込みにおこしになり、すごくありがたいなって思います。父が全国に「炭屋旅館」を広めてくれていたんだなと。お茶ができる、これは本当にありがたい事です。7日と17日は先代と先々代が亡くなった日です。お茶が大好きだった二人の供養の気持ちを込めて、今でもお客さんが沢山おいででも全くおいでにならなくても釜をかけて供養しています。

-このあたりには「柊家旅館」「俵屋旅館」と歴史ある旅館が色々ありますが、100年以上旅館業を続けられる秘訣は何でしょうか?

このあたりは鴨川が流れていて三条大橋がありますが、昔はあそこが船着き場だった様です。大阪の方から大きな船でお米やら野菜を船で持ってきて。近くに錦市場もありますから、あそこを往復するのに泊まる場所が必要だったんでしょう。今ではだいぶ少なくなりましたけど、そんな背景でここら辺には旅館が多かったんだと思います。今も「炭屋旅館」を好いてくれるお客さんがいて、良い建物もある。私自身ずっと残していきたいと思っている、それに尽きるかもしれませんね。

思い描いていた理想とは違った若女将修業時代

-女将修業時代で特に印象に残っているエピソードはございますか?

母が元気な頃私は、洗濯、まかない作り、それから客室係もしました。女将さんになると思って始まった若女将生活で、「何でこんなことをしないといけないの。私はこんなことしにここへ来たんと違うのに」って思ってました。最初から女将さんをさせてもらえると思っていたわけです。まかないさんが休むと「おかず作って」って言われ、私なりに家の料理を作るんですけど、「美味しくない」って言われます。家では2人、3人のご飯しかしたことないのにそれが20~30人のまかないでは、味付けも分量も全然わからないので。洗濯も、もういっぱい。何でこんなことしないといけないのって、洗濯機を回しながらお米も洗って、本当に嫌々でした。でも今は、色んな部署の色んな仕事をさせてもらってよかったと思います。それぞれの悩みがわかる。掃除に関しても、まかないに関しても、みんなの苦労がよくわかるので、大変な事もわかるし、本当に大事な経験だったなって思います。今だからさせてもらったと言えますけど、当時はさせられたという思いでした。若女将の時はそれが1番大変でした。

-女将になってこれも女将の仕事なんだと思われたことはありますか?

「これはどなたの軸ですか?」とお客さんに聞かれます。客室係は「今女将がきますから」って言いますが。「天井の木材は、あの床柱は?」「あのお花は何ですか?」って女将に聞いたら何でも知っていると思って声かけられます。そんな時は裏に行って、軸の箱を確認したり、大工さんに聞いたりして大変です。

-確かに。お客さんからしたら女将に聞いたら何でも知ってるって思いますよね。

そう、何でも知ってると思われます。日々勉強です。お部屋のお花も、若女将の修業時代は自分が生けていましたけど、今は手が回らないので入れて頂いてます。何のお花を入れたかメモに控えてはもらってますけど、パッとお部屋に行ってお客さんに聞かれたらすぐに答えられなくて恥をかくこともしょっちゅうあります。女将に聞いたら何でも知ってるというのがちょっとびっくりしました。

-それは本当に女将業ならではの苦悩ですね。ちなみにお茶で有名な宿の女将というのは、初めは大変ではなかったですか?

家業を継いですぐ「裏千家学園」という茶道の専門学校に3年間入りましたので、そこは大丈夫でしたね。朝からお茶を点てて、午後は座学をしてみっちりお茶を学びました。そこには色々な方がいらっしゃったので、今でもお付き合いさせて頂いていますし、学園で学ばせてもらってよかったなって思いますね。

-先代の恵美子さんや公允さんから受け継いだ伝統と、時代に合わせて変化したものはどんなところでしょうか?

色々と変わりましたよ。お布団もどんどんベッドになっていきますし。ついこの間、7つ目のベッドがあるお部屋ができて。分厚いマットレスは嫌で、畳に和布団だけど足を下せるベッドのお部屋ですね。父が亡くなってから少しずつ増やしていきました。人気なのでそのお部屋から埋まっていきますよ。外国人の方が泊まられる時は、外国人だしと思ってベッドにするんですけど「Here is Japan」って言われます。日本だから布団で寝たいって言われます。逆に日本人の熟年夫婦の方なんかが好んで予約されます。

-女将が思う「炭屋旅館」の魅力とはどんなところでしょうか?

痒いところに手が届く、お姐さんの接客ですかね。母の介護も2年間、ここでさせてもらいました。お身体が悪い方をケアされるときに何が必要なのかよくわかります。1部屋だけですけれど、裏から車椅子で入れるお部屋も造りました。

-女将業に専念されるようになったのはいつ頃ですか?

14、15年前くらいですかね。父の公允が病に倒れて入院した時に、母は父が好きな食べ物を持ってお見舞いに行くんですよ。もちろん夕食は病院でも出ますが、調理場で美味しいものを作ってもらって、それをタッパーに入れてね。それでお客様の用事が済んだ9時頃から、「寛子さん頼みまっせ」と出たきり帰って来ない。1日の出来事を話したり、一緒にご飯を食べたり、父は楽しみに待ってたんでしょうね。それで母が帰って来ないことにはしょうがない、母がいないのでみんな私に「若奥さん、これはどうしましょう、あれはどうしましょう」って相談してきはります。その頃からです「自分がやらなあかん」ってスイッチが入ったのは。責任がドンっと肩にかかってきました。

「炭屋旅館」ならではの、歴史あるこの空間を次世代に伝えていきたい

―今後女将としてどう「炭屋旅館」を支え、発展させていきたいと思われていますか?

旅館の跡を継いでくれる娘にね、3日前に子供が生まれました。今から子供が学校に入るまでは女将業に専念するのは難しいので。後10年は私が頑張らないとなって思っています。母は私に見て覚えて欲しかったんでしょうけど、見るだけでは、覚えるのもなかなか難しいです。例えば軸なんかも、母は箱を触って、見るだけでどれに何が入っているかわかったみたいなんですけど。私にはわからない。軸も娘と一緒に写真を撮って箱に貼り付けて、自分なりに把握する方法を模索しましたね。そんな苦労をしたので、娘にはただ見るだけでなく、一緒にやって覚えて、女将になって欲しいと思っています。今も軸変えたり、花変えたりするようになりましたし、子育てしながらですが昼間の仕事はできるだけ彼女に任せて、彼女を育てたいと思っています。私は自分から学ぼうとせず、嫌々だったんですが。彼女にはやる気がありそうなので、色々と学んで欲しいです。うちは古い宿ですが、またその古臭さを次の世代も、また次の世代も守っていって欲しいと思います。時代はどんどん変わって新しいホテルも増えていますけど、ある意味、こういう旅館はより希少になっていくんじゃないかと思います。新しいホテルも素敵ですけど、お客様がやっぱり落ち着くって言ってくれはるのは嬉しいです。そういう、うちなりの良さを守っていきたいと思います。

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炭屋旅館

京都府/京都・中京区

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炭屋旅館
女将 堀部 寛子(ほりべ ひろこ)
裏千家学園で3年間茶道の修業、その後、家業の「炭屋旅館」を手伝う。父・公允(こういん)は裏千家老分をつとめるが、15年程前に体調を崩し、入退院を繰り返す。看病する母を助け、またその母も入院。気が付いたら「手伝う」という気持ちがいつの間にか「頑張らなくては」に変わっていた。
毎月7日と17日の夜には、お茶が好きだった先代・先々代の供養の釜を懸け、宿泊のお客様をもてなしている。
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